堂本光一(どうもと こういち、1979年1月1日 - 、B型、兵庫県蘆屋市出身)
堂本剛(どうもと つよし、1979年4月10日 - 、AB型、奈良県奈良市出身)
大事件
1991年5月5日、橫浜アリーナで行われていた光GENJIのコンサートで初めて出會った。事務(wù)所入りは、共に姉がジャニーズ事務(wù)所に履歴書を勝手に送ったことがきっかけである。また2人共メディアや人前に出るのが苦手であり、剛は「自分は、人前に出るのが凄く苦手」、光一も「現(xiàn)在でも、仕事以外では極力人前には出ない。」とインタビューで話している。
現(xiàn)在、二人とも作詞・作曲が出來る能力を持っているが、グループで発表している二人のオリジナル曲(共作も含む)は少ない。これは二人が“他の作家の方に自分達(dá)の作品の製作を依頼し、その楽曲を発表することにより、自分達(dá)が楽曲製作を?qū)Wぶ為”、あえて外部の作家に依頼した楽曲を発表している。その成果は、數(shù)少ないオリジナル曲、そしてそれぞれのソロ活動に生かされている。(ソロ活動の楽曲の殆どは、本人達(dá)が製作したオリジナル曲である。)
1992年より、アイドル雑誌などで2人揃って活動するようになる。 正式なグループ名が決まる前までは、「ジャニーズ関西組」、「堂本ブラザーズ」、「W堂本」などの呼び名があった。 その後、1992年12月31日放送の『NHK紅白歌合戦』でSMAPのバックとして出演した際、「KANZAI BOYA(カンサイボーヤ)」という名前で紹介される。 そして、中居正広司會の『キスした?SMAP』第1回放送(1993年4月4日)にて、正式に“Kinki Kids”の名に決定した。 尚、“K”の文字がすべて大文字に統(tǒng)一されたのは、1994年末からである。
1994年12月31日、日本武道館でファーストコンサートを行う。1999年には、『NHK紅白歌合戦』の歌の合間のコーナーでゲストとして「フラワー」を歌った。
1997年7月21日、シングル『硝子の少年』、アルバム『A album』の同時発売でCDデビュー。共にオリコン初登場第1位を獲得、ミリオンセラーを達(dá)成(『硝子の少年』はオリコン調(diào)べで売り上げ178萬枚、ジャニーズ・エンタテイメント発表によると出荷枚數(shù)265萬枚)。アイドル歌手のデビューシングルの売り上げとしては、小柳ルミ子の『わたしの城下町』(1971年、150萬枚)の記録を26年ぶりに更新し、1997年度のCD売り上げ2位を記録。以降、『愛されるより 愛したい』・『全部だきしめて/青の時代』・『フラワー』と、4作のミリオンセラーを記録(ジャニーズ・エンタテイメント発表によると、デビュー以來出荷枚數(shù)ではシングル11作連続ミリオンセラー)。また、26作連続でオリコンシングルチャート初登場第1位を継続、今なお自身で記録を更新中である。これは、デビューから連続しているもので、アイルランドのグループ、ウエストライフを上回って世界最高記録となり、ギネスブックにも掲載されている。デビューシングルの『硝子の少年』から24枚目のシングル『Harmony of December』までのシングルが30萬枚以上売り上げている。
音楽活動の他、バラエティ番組の司會でも活躍。特に『LOVE LOVEあいしてる』では、吉田拓郎や坂崎幸之助(THE ALFEE)の指導(dǎo)でギター演奏に取り組み、また、多くのミュージシャンとの親交を深めるなどその後の自身の音楽活動に大きな影響を與え、シングル『好きになってく 愛してく』では日本のアイドルグループとしては初めて自らの作詞・作曲による楽曲でのオリコンランキング1位を獲得した。
2007年末から行われる年末年始恒例となっている東京ドーム公演、「We are Ø'n39!! and U?」の日程が公演最終日の元旦で30公演となり、単獨(dú)アーティストによる最多公演記録數(shù)を更新する。