谷村新司

姓 名:谷村新司
英文名: GuCunXinSi
國 家:日本

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粉絲
138
歌曲
56
專輯
56
評論

姓名:谷村新司
出生地:大阪府大阪市
出生日:1948年12月11日
星座:射手座
血型:AB型
身高:173cm
一首《星》讓中國人民認(rèn)識了這位在日本家喻戶曉的著名音樂人-谷村新司。同樣谷村新司也把這首歌帶向了世界。1971年,由谷村新司參加的樂隊“Alice”正式結(jié)成。1972年他們發(fā)行了首張單曲唱片,2年后他們又推出了樂隊的第一張專輯唱片。與此同時,谷村新司還為不少同行提供歌曲,如中國觀眾非常喜愛的山口百惠,都曾經(jīng)演唱過他的作品。谷村的歌幽柔悅耳,給人的感覺很好。
早在21年前,1981年8月23日,谷村新司第一次踏上了中國的舞臺,在北京工人體育館,與中國歌手們共同參加了《Hand in Hand北京》的演唱會。從那時起,谷村新司就與中國結(jié)下了不解之緣。他還在中國香港、韓國、新加坡、泰國等地舉行了巡演,所到之處都取得了巨大的轟動。1987年獨立后的谷村新司首次參加了日本一年一度的盛會“紅白歌會”,演唱了那首膾炙人口的《星》,據(jù)統(tǒng)計,在演唱這首歌時的電視收視率曾突破了63%的驚人數(shù)字。從那時起至今,谷村新司連續(xù)15年參加“紅白歌會”,成為這檔日本年末最具有代表性的節(jié)目的元老歌手。也許人們還不太了解《星》這首歌的創(chuàng)作初衷,原來這首歌是在谷村新司還未踏上中國國土的情況下,憑借自己的想象,以中國為背景創(chuàng)作出來的。去年他還親自來到黃河源,追尋他的那片“星的樂園”。今年正值中日邦交正常化30周年之計,谷村新司受托策劃了2002年9月22日超大型演唱會《中日攜手·世紀(jì)同行》。谷村本人將率領(lǐng)日本超豪華陣容的歌手們與中國頂級歌手們在北京工人體育場為朋友們獻(xiàn)上一臺盛況空前的演唱會,當(dāng)然,他也將一展歌喉為廣大中國觀眾帶去他的“星”愿!
輝煌數(shù)字  創(chuàng)作歌曲總數(shù)。370首
單曲唱片發(fā)行數(shù)量:62張
專輯唱片發(fā)行數(shù)量:63張
唱片銷售總量。29,796,682張
舉辦個人演唱會(日本):3620回(創(chuàng)日本第一!!!)
參加海外演唱會:30回(北京、上海、韓國、中國香港、越南、曼谷、雅加達(dá)、吉隆坡、馬來西亞、新加坡、馬尼拉、美國、墨西哥、維也納)
演唱會觀眾總?cè)藬?shù):7,860,000人
1984年7月11日——在日本東京與譚詠麟及趙容弼舉行“84年亞洲和平音樂會”
1985年11月8日至10日——與趙容弼和譚詠麟在中國香港成功舉行亞洲和平音樂會
2003年,為了幫助中國抗擊非典,谷村新司先生特地在日本大阪舉行的《抵制非典,支援中國》演唱會,將演唱會帶來的18萬美元,全數(shù)捐給中國非典患者,并在第二年,也就是2004年來中國再次舉辦演唱會來感謝那些為非典治療工作的醫(yī)務(wù)人員。
舉行與趙容弼和譚詠麟PAX MUSICA音樂會
2007年6月3日《群星耀東方》谷村新司和毛阿敏合唱歌,曲名是《花》。最后以一曲經(jīng)典歌曲《光榮與夢想》為演唱會劃上一個完美的句號。
谷村新司為聯(lián)合國防止亂用藥物活動寫的主題歌,歌名是《ギーター》,
谷村 新司(たにむら しんじ、1948年12月11日 - )は、日本のシンガーソングライター、タレント、作詞家、作曲家、大學(xué)教授。愛稱はチンペイ。
大阪市東住吉區(qū)出身。表彰歴には日本赤十字社金色有功章など。
プロフィール
大阪市立桑津小學(xué)校、同立東住吉中學(xué)校、大阪府立大和川高等學(xué)校卒業(yè)。桃山學(xué)院大學(xué)中退後、堀內(nèi)孝雄らとともにアリスを創(chuàng)設(shè)したメンバーの一人。
父・新蔵は奈良県生まれ。少年時代は肥満體型で、「ブタ」と渾名され傷つく。特に音楽に興味があった訳ではないが、『渡り鳥シリーズ』でギターを弾く(本當(dāng)は弾く真似だった)小林旭の姿を見て一念発起。「女にモテたい一心で」(本人談)ギターを練習(xí)し始め、やがてバンド活動も開始した。
高校時代の1965年に、山本峯幸、島津ちず子とピーター・ポール&マリースタイルのフォーク・グループロック・キャンディーズを結(jié)成。グループ名は「氷砂糖」の意。大阪、神戸で絶大な人気を誇り、神戸のアマチュア・バンド・サークル「ポート・ジュビリー」の看板グループであった。アマチュアながら、1971年には唯一のアルバム『讃美歌』を発表している。
1970年大阪萬博の會場で、後にアリスの所屬事務(wù)所「ヤング・ジャパン」社長となる細(xì)川建と知り合う。細(xì)川の音頭取りで実行したアメリカ・コンサート・ツアーで、ロック・キャンディーズやザ・フォーク・クルセダーズらと共に參加していたソウル・バンド、ブラウン・ライスのドラマー矢沢透と知り合い意気投合。帰國したら一緒にグループを組もうと約束する。このとき谷村の頭の中には、新グループ「アリス」の構(gòu)想ができつつあった。このアメリカ・ツアー中にレッド・ツェッペリンのステージを観る機(jī)會があり、ジミー・ペイジの獨特のギター・プレイに圧倒されたという。同じく訪米中にジャニス・ジョプリンのライブを観る機(jī)會にも恵まれ、「當(dāng)時彼女の生演奏に觸れることのできた數(shù)少ない日本人として幸運(yùn)」と谷村本人が語っている。
帰國した谷村は、アマチュア・ロック・バンドフーリッシュ・ブラザーズ・フットのボーカル 堀內(nèi)孝雄をアリスに勧誘。堀內(nèi)は ポート・ジュビリーで、既に谷村とは知り合いだった。
1971年12月25日、谷村新司、堀內(nèi)孝雄の2名でアリス結(jié)成。翌1972年3月5日、シングル『走っておいで戀人よ』でデビュー。同年5月3日、矢沢透が合流し、現(xiàn)在のアリスとなった。2ギター&ボーカル、1パーカッションという特異な編成とブルース色の強(qiáng)い演奏については、リッチー・ヘブンスの影響を少なからず受けているとのことである。
デビュー當(dāng)初はヒット曲もなく、鳴かず飛ばずであった。なんとか打開策を見出そうと、ソウルミュージックの帝王ジェームス・ブラウンを初來日させるが、當(dāng)時の日本ではマイナーなアーティストだったこともあって、來日公演は不入り。逆の意味で“伝説のライブ”となり、所屬事務(wù)所「ヤング・ジャパン」は、莫大な借金を背負(fù)ってしまった。
借金返済のためグアムへのクルージング・ツアーを企畫するが、これもまた成功には至らず借金をこじらせる結(jié)果となる。挙句は帰國途中に谷村が當(dāng)事者となったコレラ騒動までもが起こった。(後にコレラでないと判明するまで船底に一時隔離されていた)
しかしアリスは、地道なライブ活動(1974年には年間303ステージという記録が殘っている)と『今はもうだれも』のヒットを契機(jī)に、『冬の稲妻』『涙の誓い』『ジョニーの子守唄』『チャンピオン』『狂った果実』等のヒット曲を連発。1978年には日本人アーティストとして初めて日本武道館3日間公演を成功させるなど、一時代を築いた。
アリスの活動と並行して、ソロ活動も開始。コンサート活動はなかった(シャンソン歌手アダモとのジョイント・コンサートを除く)ものの、1975年のアルバム『蜩(ひぐらし)』を皮切りに、ソロ名義でのアルバムやシングル製作、他の歌手への楽曲提供(山口百恵の『いい日旅立ち』など)を精力的に行う。アリスとは異なる音楽世界は、1979年の『陽はまた昇る』を経て、1980年の『昴』で一定の完成をみる。1981年にはシングル『群青』が東寶映畫『連合艦隊』の主題歌となる。戦死した息子を想う親の悲しみを歌ったこの歌に対し、田川律など一部の音楽評論家から「好戦的右翼」との非難を受けたが、この批判は的外れであるというのが一般的な認(rèn)識である。
1981年8月23日、北京・工人體育館にて日中共同コンサート「ハンド・イン・ハンド北京」開催。中國におけるロック・ポップス系コンサートとしては、前年10月に工人文化宮で開催された「第一回中日友好音楽祭」に出演したゴダイゴに次ぐものだが、単獨公演としてはアリスが初めてであった。この公演が李力や王勇ら多くの若手ミュージシャンに影響を與え、中國にポップスが根付く礎(chǔ)となった。またソロになった谷村が、本格的にアジアに目を向けた活動を始めるきっかけにもなった。
1981年11月にアリス活動停止。
翌1982年にシングル『スーパースター-MY SUPERSTAR-』、アルバム『JADE-翡翠-』をリリースして、本格的にソロ活動をスタート。1983年の『EMBLEM』、1984年の『抱擁』『刺-とげ-』など、1980年代は年に1~2枚のハイペースでアルバムを発表。いずれもアルバム毎に明確なコンセプトをもった意欲作である。またその間『22歳』や、小川知子とのデュエット曲『忘れていいの-愛の幕切れ-』のシングル曲もヒットさせている。
毎年のコンサート・ツアーとは別に、さだまさし、北島三郎、郷ひろみらとジョイント・コンサートを?qū)g施。1983年からはニュー・ミュージック系アーティストでは初めてのディナーショーもスタート。また親友である チョー・ヨンピル、アラン・タムと共に、アジアのミュージシャンを集めたイベントPAX MUSICAをスタート。1984年の後楽園球場での公演を皮切りに、年に1回アジア各地で開催され、現(xiàn)在も続いている。ちなみに1985年、映畫『サンダーアーム/龍兄虎弟』撮影中に瀕死の重傷を負(fù)ったジャッキー・チェンが、復(fù)活した姿を初めて聴衆(zhòng)の前に現(xiàn)したのも、中國香港コロシアムでのPAX MUSICA公演のステージ上であった。
1986年、完成したばかりの東京・青山劇場で1ヶ月のロングラン・リサイタル『CORAZON』を開催。この青山劇場公演は年末の恒例行事となり、2002年の『LA STRADA VI -寶石心-』まで続いた。
1989年12月、父・新蔵が死去。その年の『紅白(第40回)』で『陽はまた昇る』を追悼曲として歌った。
1988年にはロンドン交響楽団と共演した大作アルバム『獅子と薔薇』を発表。1989年の『輪舞-ロンド-』(國立パリ・オペラ・オーケストラと共演)、1990年の『Price of Love』(ウィーン交響楽団プロジェクトと共演)と合わせ、「ヨーロッパ三部作」を完成させる。1995年のアルバム『I・T・A・N』ではプロデューサーにフィル・ラモーンとジャック・エリオットを起用するなど、この時期は歐米のミュージシャン、プロデューサーとの仕事が多い。
1996年には世界初のDVDソフト『シンジ ラ ムニタ』を発表。ちなみに世界初のCDソフトはフィル・ラモーンがプロデュースしたビリー・ジョエル のアルバム『ニューヨーク52番街』である。谷村とフィルの縁の深さは、こんなところにも現(xiàn)われている……というのは穿ちすぎか。なお谷村が世界で初めてDVDを発表した人物であることは2008年9月3日に、森田一義アワー 笑っていいとも!の水曜コーナー『クイズ!メイクダウト』で紹介された。
アリスとしての活動も1987年に再開。シングル『BURAI』、アルバム『ALICEX』をリリースし健在をアピール。ただし、この時はコンサート・ツアーは行わず、數(shù)本のテレビ番組出演をするにとどまった。その後アリスは再び長い活動休止期間に入るが、2000年末の『NHK紅白歌合戦』から活動を再開。翌2001年は、1月17日の神戸國際會館でのコンサートを皮切りに、14年ぶりのニュー・アルバム『ALICE 0001』のリリース、全國ツアーと活躍。年齢を感じさせないパワフルなステージは、ファンを喜ばせた。2005年末の『NHK紅白歌合戦』に、アリスとして2度目の出場。
南ベトナムのグエン・カオ・キ元副大統(tǒng)領(lǐng)に顔が似ているとしても知られている。顔の2大特徴のうち、後退気味の額は初期アリス時代からで當(dāng)時はキャップを被ることが多かった。さだまさしは、自身と谷村および松山千春を「フォーク界御三毛(ごさんけ)」と呼んだことがある。
口髭は1980年代に入ってから蓄えている。
『セイ!ヤング』などのタレント活動も行っていて、「家に2000本近くのアダルトビデオがある」ことはあまりにも有名!弗榨ˉ氓伐绁螗廿毳埂工胜嗓葧欷縏シャツを著てテレビに出演することもある。また、ビニ本専用倉庫もあり、そこにチョー・ヨンピルを呼んだこともあるらしい。またアリスの武道館コンサート終演後すぐさまいきつけのビニ本屋に向かい、飯を食べていない店長の代わりに店番を務(wù)めていたところ、店に立ち寄ったコンサート帰りのファンが谷村がレジに座っているのを見て驚愕したという逸話もある。更に「何でこんな所にいるんですか! 僕たちの感動を返してください!」と激高したファンに対して「これも一つのハンド・イン・ハンドや」と切り返したというエピソードを後年本人が語っている。深夜のラジオ番組にて洋物スカトロ系ビニ本のモデルについて解説をしたり、「ベッドの上にはタブーはありません」と主張を繰り返すなど、男女のありかたについて一家言を持つ。
『セイ!ヤング』は最初ピンで、のちにばんばひろふみの共演で火曜日を擔(dān)當(dāng)していたがピン時代からの名物コーナー『天才・秀才・バカ』は現(xiàn)在のテレビでは放送できない下ネタのオンパレードでこれが元で今でも谷村=スケベというイメージで見られている。
175RやGackt、TRICERATOPSら若手ミュージシャンとの交流も積極的。デーモン小暮閣下が谷村のコンサートにゲスト出演したこともある。また、1993年のコンサート『THE MAN』のバック・メンバーの中には、元爆風(fēng)スランプのベーシスト江川ほーじんがいた。2002年のアルバム『半空』には、坂崎幸之助や鈴木康博といった舊友に混じって、元MR.BIGのギタリストポール・ギルバートが參加している。
『昴』や『群青』『三都物語』といったシングル曲のイメージからか、CDが演歌のコーナーに置かれることも多いが、過激なまでに新たな試みに挑戦し続ける姿勢はロックそのものであり、そのスピリットはアルバムの収録曲にも十分に現(xiàn)われている。アジアでのコンサート活動や、ディナーショーを始めた時も理解者は少なく、嘲笑や批判の聲が多かった。しかし現(xiàn)在では、日本のロック、ポップス系アーティストのアジアでの活動や、ディナーショーも、普通の事としてすっかり定著してしまっている。こういった活動のパイオニアとしても、谷村新司はもっと評価されるべきだろう。
『いい日旅立ち』『三都物語』『いい日旅立ち・西へ』『風(fēng)の暦』などJR西日本等の鉄道のCMで谷村の歌が頻繁に使われているため、鉄道ファンからの人気も高い。中には谷村の聲を聞くだけでJR西日本の車両を連想する鉄道ファンもいる。
コンサートのクオリティの高さには定評があるが、2003年を最後にコンサート・ツアーを一旦休止。
2004年からは中國・上海音楽學(xué)院で教授を務(wù)めている。同年、中國の歌手毛寧のアルバム『我』をプロデュース。
2000年、インディーズ・レーベル「mama's & papa's」を立ち上げたものの、リリースしたシングルは『ハーヴェスト』1曲のみで、ファンをやきもきさせた。2006年には業(yè)界大手エイベックスに移籍、6年ぶりのシングル『風(fēng)の暦』をリリース。
2007年4月18日に『半空』以來5年ぶりのオリジナル・アルバム『オリオン13』を発売。
Tanimura Shinji was born in Kawachinagano, Osaka on Decemeber 11, 1948. He was exposed to music by his mothers shamisen playing and his sisters high school folk dancing at a young age. He spent his late elementary and junior high school years being one of the only overweight kids in his school. In junior high he began writing poetry and learning guitar. There weren’t any instruction manuals in these days, so he had to practice by ear while listening to records and the radio and trying to figure out the notes. Throughout high school he continued to practice, write songs, and copy American folk songs. In high school he formed the band ‘Rock Candies’ with some friends. The band gained some local success in his college days, and the money earned paid for his food and expenses. He also began exercising and lost the weight that had plagued him through his school days.
Rock Candies continued to become more successful as an amateur band amongst students in the Kansai area. In 1970, with the band still an unsigned amateur act with no releases, they made the insanely ambitious decision to tour around the streets of the US. He went to a festival at the Shea Stadium in New York where acts like Steppenwolf, Paul Simon, and Richie Heavens were performing. The last act was Janis Joplin (in perhaps her last live, or close to it) and though he had never heard her he was heavily impacted by her performance, calling it “the greatest encounter of my life”.

谷村新司的留言板